10月── 出雲大社に全国の神が集まる「神無月(かんなづき)」の詩歌
藤原鎌足を祭神とする談山神社(奈良県)に実る柿
「かみなづき(かみなしづき)」の変化した言葉なのですが、由来は日本中の神様が出雲大社に集まり、一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなってしまうから……。
つまり「神様がいない=神無月」という伝承から、その名がついたとされています。
逆に、出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ぶそうです。そこで今回は、秋が深まりゆく10月の詩歌を。
秋の味覚・柿、葡萄
〈柿くへば鐘がなるなり法隆寺〉
柿といえば、次の句を思い出さない人は少ないんじゃないか、というほど有名なのが、
〈柿くへば鐘がなるなり法隆寺〉正岡子規
子規と仲がよかった夏目漱石は、ある時正岡子規が一度に柿を16個食べたと暴露しています(「三四郎」)。
この句のおかげか、柿は俳句と相性がいいようです。やや枯れた味わいがいっそう俳味(俳句らしさ)を感じさせて秋に似合います。柿は古くから栽培されている植物ですが、近代以前は、柿などの果物を歌に詠むことはありませんでした。
〈柿の朱を点じたる空こはれずに〉細見綾子
〈柿ひとつ貰ひて柿と遊びけり〉遠藤梧逸
同じ頃にたわわに実るぶどうですが、柿と違って、より甘く、ほのかに酸っぱく、豊かな感じがします。
〈葡萄食ふ一語一語の如くにて〉中村草田男
〈葡萄に舌をいきいきとさせ今日はじまる〉加藤楸邨
秋の夜のものおもい
〈〜いづこもおなじ秋のゆふぐれ〉
秋の夜、昔のことを思い出して考えこんだりします。
〈門を出(いで)て故人に逢(あい)ぬ秋の暮〉与謝蕪村
〈頬杖に深き秋思の観世音〉高橋淡路女
〈秋の日が終る抽斗(ひきだし)をしめるやうに〉有馬朗人
蕪村の句はさびしさとなつかしさが入り混じったような秋の夕方を詠んでいます。
秋にさびしさを感じ、もの思うことは、中国の詩人・杜甫の句に由来する「秋思(しゅうし)」という言葉がある通り、歌でも昔から詠われてきました。
〈さびしさに宿をたちいでてながむればいづこもおなじ秋のゆふぐれ〉良暹法師
〈むかし思ふ秋の寝覚の床の上にほのかにかよふ峰の松風〉源実朝
〈おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ〉会津八一
八一の歌は「唐招提寺にて」という詞書があります。秋とはっきり書いてありませんが、秋のほのかな憂いを謳っているような歌です。
思い通りにならない「時の早さ」を感じる、季節の変わり目
ミミズが鳴くわけはないのですが、「秋の夜、じーっと切れ目なく長く、何ものとも分かちがたく鳴く音」をいうのだそうです(山本健吉)。
要するに、秋の夜の静けさを表現する、俳句的な想像力のひとつだということでしょうか。
〈蓙(ござ)ひえて蚯蚓鳴き出す別(わかれ)かな〉寺田寅彦
もうすぐ冬がやってきます。
〈かくれんぼ三つ数えて冬となる〉寺山修司
季節の変わり目は、こんなふうにあっという間です。
季節の言葉は、思い通りにならない「時の早さ」を、なんとかしばし止めようとする人間の願望なのでしょう。
── 今日から10月。今年も残り3カ月となってしまいました。早いものですね。
この時季は感傷的な気分に陥りがちですが、無理して明るく努めるよりは、人間の感情「喜怒哀楽」の「哀」を意識的に自覚することも、秋のひとつの過ごし方ではないでしょうか。情感をもつのは、ヒトだけなのですから。