寒い季節に元気をくれる冬知らず。ホンキンセンカが咲き始める頃、七十二候「金盞香」
宝暦暦編纂にたずさわった西村遠里「金盞香とはキンセンカのこと」
金盞=金の盃はこの花の姿から取られました
「金盞香」の金盞とは、キンセンカです。
ではどうして、金盞花であったものが「水仙である」ということになったのでしょうか。ルーツは意外にも古く江戸後期にありました。伊勢神宮の権禰宜・春木煥光(はるきてるみつ)による「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年/文政4年)で、「金盞香の金盞は水仙のことだ」と明言しているのです。現代の多くの歳時記や辞書は、この記載を採用しているのでしょう。
が、この春木煥光、他の記載にかなり怪しい知識のものが多く、たとえばやはり解釈に異論の多い冬至の次侯「麋角解(さわしかつのおる)」について、「芸州厳島ニハ麋多シ」と、麋(さわしか=シフゾウ)についてなにやら勘違いしている模様です(『麋角解』についてはまた稿をあらためて解説できたらと思います)。ともあれ、宝暦暦が発布された宝暦5(1755)年から60年以上経つ間に、金盞はキンセンカから水仙にすりかわってしまったのです。
フユシラズを指していた「金盞」が水仙にすり替わったワケとは
水仙の花
先述した春木煥光の「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年/文政4年)をひもとき、該当箇所を抜書きすると、「金盞ハ金盞銀台ノ別名ヲ略称スルニテ即チ水仙ノコト也」としています。しかし水仙の金盞銀台という別名は水仙の雅号です。雅号を「省略」して呼ぶのは、そのこと自体が矛盾します。敬って呼ぶ言葉を省略してしまっては、ないがしろにしてることになります。したがって、水仙を「金盞」と略して呼ぶことはないのです。
もちろん、今や七十二候は生活に必要な知識というよりも、日々の暮らしに季節感や彩りを与える趣味の域の分野ですから、何をもって正しい、とか間違っている、と決めつけるべきものではなくなっています。しかし、「あえて」水仙としたいのであっても、「本来は金盞花(冬知らず)のことだった」ということをきちんとと認識することは、大切なことなのではないでしょうか。
ホンキンセンカ=冬知らずってどんな花?
原産地は地中海沿岸で、中国には紀元前よりはいり、生薬として栽培されていました。金盞花という名のほか、金仙花、金盞兒花、長春花、長春菊などの名でも呼ばれます。
日本でもこのキンセンカは広く栽培されていたようで、明治期の博物学者・民俗学者の南方熊楠が子どもの頃に飽きずに愛読したという中村惕斎の「訓蒙圖彙(きんもうずい)」(1666年)にも図版つきで紹介され、日本人にはなじみのある草花でした。このほか貝原益軒「花譜」(1694年)にもホンキンセンカの記載があり、江戸の初期から中期には金盞花=ホンキンセンカであることがわかります。
一方で幕末、シーボルトが本国に持ち帰った標本には「金盞草」とラベリングされたものがあり、こちらはトウキンセンカと同定されているため、江戸末期にはトウキンセンカの方が金盞花として一般的になっていたように推測されます。こうした流行り廃りが、「金盞香」の花についての解釈に影響を及ぼしたのでしょう。
今より寒さの厳しかった江戸時代、そして幕府の緊縮政策でわび住まいを余儀なくされていた都の公家たちにとっては、江戸時代はいわば冬の時代。土御門泰邦は、冬の寒さに負けずに凛と咲く小さな花に、落ちぶれても我らは黄金の盃にも似た貴種なり、という意地を託したのではないでしょうか。
ホンキンセンカは、現在では栽培する人もあまりありませんが、日本各地で自生しています。小春日和の散歩がてら、さがしてみてはいかがでしょう。
和魂和才・世界を超えた江戸の偉人たち 童門冬二 PHP出版
参考サイト・写真提供 津軽海峡のデジカメ紀行/復刻版