今日12月9日は漱石忌。明治の文豪にして国民的作家の命日です
夏目漱石像
家から家へ行ったり来たり。漱石の幼少期は波瀾万丈!
漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館
時代は江戸から明治へ大きく社会の仕組みが変わります。明治2年に名主制度が廃止されると夏目家、塩原家ともに家を存続していくためには大変な苦労をしたようです。父直克が嘱望して漱石を預けた塩原は女癖が悪く、外に女性をつくり家を出て同棲するという家庭不和の中、漱石8歳のとき養父母は離婚します。その後すぐに夏目家に戻りますが塩原姓のままでした。夏目家にとって漱石が跡取りとして大事になる時が突然やって来ます。長兄、次兄が相次いで結核で亡くなるのです。漱石21歳の時です。三男に家を継ぐだけの器量がないと判断した父はなんとか漱石を夏目家に取り戻そうと塩原家にかけあいます。結局直克は7年間の養育費として240円を塩原に支払い漱石を取り戻します。21歳にして初めて漱石は夏目姓を名乗るのです。その後も塩原はお金を無心するなど漱石にとっては厄介の種になっていたようです。家を継ぐという考えのもと、幼い漱石はふたつの家の間をまるで物のようにやり取りされたのでした。
幼い頃、物のようにやり取りされた漱石が抱く母への思い
旧夏目邸の基礎と猫の墓
「母の記念のために」として母の記憶を拾いながら書き綴った文章もあります。紺無地の絽のきものに幅の狭い黒繻子帯を締め、大きな眼鏡をかけて裁縫をしている姿。漱石が遥か昔の幻像を呼び起こすように思い出す母のイメージはこれだけだそうです。季節を問わず夏のきものを着ている思い出の母はどんなに記憶を辿っても若い姿がないといいます。少しさびしかったようです。ある日漱石が昼寝をしている時、人のお金を使い込むという怖い夢を見て苦しさにうなされていると、その声を聞きつけ飛んできた母が微笑しながら「心配しないでも好いよ、御母さんがいくらでも御金を出して上げるから」といって安心させてくれたそうです。漱石にとって夢か現かもうはっきりしない思い出だそうですが、救いを求めた自分を慰めにきてくれた母に心から愛情を求めていたに違いありません。
漱石が14歳の時に55歳で亡くなった母「千枝」の名を「私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする」ときっぱりといっています。母を恋う思いの深さを感じますね。『硝子戸の中』は死の前年に朝日新聞に連載されました。
複雑な子供時代、漱石の英文学者、文豪までの道のりは?
紆余曲折の学問の道ですが、それぞれの学校で漱石は多くの人と交流し、中村是公、正岡子規といった生涯の友人を得て青春を花開かせます。家庭的な愛情には恵まれませんでしたが、幼い頃から孤独を見つめていた漱石は屈託なく論じ合える友を心から大切にしていきました。後に作家となった漱石の家には名を成す多くの人が集い、漱石山脈ともいわれました。
101年前の今日49歳で亡くなる時は妻子、友人そして門下の人々大勢に見守られての旅立ちでした。「文献院古道漱石居士」が戒名です。お墓は雑司ヶ谷の墓地にあります。これからも自分の作品が多くの人に読まれるのをここで静かに見守っていることでしょう。
参考:
『漱石全集』全28巻 岩波書店
『夏目漱石』戸川信介 岩波新書