「われに五月を」5月に逝った寺山修司の、瑞々しいデビュー作
「言葉の錬金術師」の原点とは
寺山修司『われに五月を』日本図書センター 2004
1967年、32歳で演劇実験室「天井桟敷」を結成すると、『毛皮のマリー』『書を捨て町へ出よう』『身毒丸』『レミング』といった問題作を次々と発表し、1960年代後半から1970年代にかけてのアングラ劇団ブームを牽引しました。映画監督としても『田園に死す』『草迷宮』『さらば箱舟』などを発表し、国際的な評価を得ます。寺山の世界観として想起されるシュールでアヴァンギャルドなイメージは、このような演劇や映像作品によって生まれたといえるでしょう。
マルチな才能を発揮した寺山修司ですが、その原点は意外にも俳句や短歌など歌人としての創作活動でした。デビュー作は、収められたすべてが10代の頃の作品である『われに五月を』。あまりに瑞々しくイノセントな短歌や俳句の数々は、面映さを感じるほど。そこには、その後の屹立する作品と比べると微小ながら、特別な強い輝きが存在していることに驚かされます。
瀕死の病と、10代の自分との訣別
小川 太郎『寺山修司 その知られざる青春』 中央公論新社 2013
「この作品集に収められた作品たちは全て僕の内に棲む僕の青年の所産である。言葉を更えて言えばこの作品集を発行すると同時に僕の内で死んだ一人の青年の葬いの花束とも言っていいだろう。しかし青年は死んだがその意識は僕の内に保たれる。「大人になった僕」を想像することは僕の日日にとってはなるほど最も許しがたく思われたものだ。
だが今ではもう僕はそれを許そうと思う。いや、許すというよりもロムヌーボー「新しい大人」の典型になろうと思うのだ。美しかった日日にこれからの僕の日日を復讐されるような誤ちを犯すまい。」(『われに五月を』「僕のノート」)
5月に生まれ、5月に死す
「四月二十二日の入院以来、ありとあらゆる医療器械にとりまかれて昏睡状態をつづける寺山を見守ってきたのだから、とっくに覚悟はできていたはずだが、『われに五月を』という題名を思い出した瞬間、私の心に哀しみと解放感をともなった不思議な感情が生まれた。(中略)そのとき初めて私は寺山の死を受け容れる気持ちになったのかもしれない。」
「五月四日午後零時五分、心電図の針が上下動をやめ、グラフに画かれていた弱い波動が、私の目の前で一本の平坦な直線に変った。(中略)死へと向かって成熟してゆくことを終始拒否しつづけてきた彼にとって、その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、<私>との和解の瞬間、むしろ誕生の瞬間であるかのように思われた。」(谷川俊太郎「寺山修司 ─ 五月の死」)
20歳の「死」。その後の「生」と「死」。5月に生まれ、5月に逝った寺山修司。「美しかった日日にこれからの僕の日日を復讐されるような誤ちを犯すまい。」と誓った彼の世界が、ひとつになった瞬間といえるのかもしれません。
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ
夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち
萌ゆる雑木は僕のなかにむせんだ
僕は知る 風のひかりのなかで
僕はもう花ばなを歌わないだろう
僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう
春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを
そうして僕が知らない僕の新しい血について
僕は林で考えるだろう
木苺よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ
二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した
(『われに五月を』「五月の詩・序詞」)
寺山修司『われに五月を』思潮社 1985
谷川俊太郎『ことばを中心に』草思社 1985
小川 太郎『寺山修司 その知られざる青春』 中央公論新社 2013