吉田寅次郎、若き日の旅に何を見た?10月27日は松陰忌
吉田松陰・金子重輔像
発動の機は周遊の益なり
東京世田谷・松陰神社
幕末の志士、思想家、教育者となった松陰の契機は3回あったと言われます。その第一が嘉永3(1850)年、21歳の時の九州遊学です。彼はこの旅を契機に、新しい実践的学問に転じていきます。海の向こうで清がアヘン戦争でイギリスに敗北し、西洋諸国の東アジアでの動きに危機意識が芽生えていたのでしょう。当時、唯一海外に開かれた場のあった長崎で、寅次郎は中国やオランダの領事館で貪るように情報収集したとのこと。小倉、平戸などの港も自分の眼で確かめています。
彼はこの旅の日記の中で、学問の考え方についてこう記しています。「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機あるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり」。経書を読む書斎ではなく、現実の世界との接触・交流が、活き活きと力を発動するのだと確信したのです。
至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり
松下村塾
松陰は突き動かされるように旅を重ね、途中亡命の罪を問われますが、藩主敬親の特別の計らいで、更に10年の諸国遊学が許されたのでした。嘉永6(1853)年、松陰は再び萩を出発し、途中京都で諸国の志士と交遊を深めたのち江戸へ戻ります。この24歳の年が、松陰の運命が決定付けられた第二の契機となりました。
浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰は大きな衝撃を受け、密航を図るに至ります。翌年安政元(1854)年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊中の艦隊に乗船した松陰と弟子の金子重輔は、アメリカ渡航を求めるものの失敗。二人には国許幽閉が申し渡され、 萩に帰った松陰は野山獄に繋がれました。しかし『孟子』の勉強会を開くなど、松陰は獄内を互いに学び合う場としていきます。
1年で松陰は実家に戻され、幽囚下で「松下村塾」が始まります。この塾が開かれた期間は僅か2年間余り。その中で明治の元勲として活躍した若き伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などが巣立っていったのです。松陰は孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり」という言葉を愛しましたが、誠心がいつかは受け入れられていく、という思いを継いだのが松下村塾の弟子たちだったとも言えるでしょう。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂
萩・松陰神社
処刑前日の10月26日に書き上げられた、いわば門下生への遺書が『留魂録』。すでに死を予知して、松陰自身の心境と同志への遺託が切々と記されています。その冒頭が、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の歌。現代語で言えば、「自分の命がこの武蔵野で果てる事となっても、国を思う大和魂はこの世で生き続ける。」といったところでしょうか。『留魂録』には次にご紹介するような言葉があります。
「今日死を覚悟しても心の平安があるが、これは春・夏・秋・冬の四季の循環において考えるところがあったからだ。かの農事のことをみるに、春に種をまき、夏に稲を植え、秋には刈り、冬はその果実を貯蔵する。秋・冬になると、百姓はみなその年の労働の成果を喜び、酒を造り、甘酒をつくり、村中に歓声がみちみちるのである。いまだかって、秋の収穫期にのぞんで、その年の労働が終わることを悲しむ者を聞いたことがない。」
「この私の身についていえば、花咲き実結ぶの時である。必ずしも悲しむことはないであろう。」「三十歳にはおのずから三十歳の四季がある。」「もし同志の中でこの私の心あるところを憐れんで、私の志を受け継いでくれる人があれば、それはまかれた種子が絶えないで、穀物が年から年へと実ってくるのと変わりはないことになろう。同志の人びとよ、どうかこのことをよく考えて欲しい。」
こう書き遺した松陰の人生は、国の各地を駆け抜けて物事を自分の眼で確かめ、交流した人びと全てに誠心を尽くし、知識を惜しまず教えて説いた怒涛の日々でもありました。そんな彼の想いへの共感から激動の時代の今もなお、松陰神社にたくさんの人が訪れるのかもしれません。
<文の引用と参考文献>
吉田松陰(著)松本 三之介(翻訳)松永昌三(翻訳)田中彰(翻訳)『講孟余話 ほか』(中央公論新社)