おかると勘平の悲劇も、山鹿流陣太鼓も、全てフィクション?――『忠臣蔵』は創作だらけの物語だった
赤穂浪士が眠る泉岳寺
事件後、初めての赤穂浪士ものライターは近松門左衛門
赤穂城本丸櫓門
1年9か月後に大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良上野介を討ち取ると、庶民たちは喝采。その後、おびただしい数の作品が、歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台を賑わせていきます。事件後、初めて赤穂浪士の討ち入りを取り上げたのは、近松門左衛門の『碁盤太平記』(1706)。さすが、心中事件の1か月後に『曽根崎心中』を上演させた近松です。
幕府は何度も事件の劇化禁止のお触れを出しますが、討ち入り成功を賞賛した作品の改作・改良は止まりません。そして近松の弟子筋の竹田出雲らによって、討ち入りから足掛け47年を経ての集大成となったのが、『仮名手本忠臣蔵』。全体大序から十一段目まで、一大ドラマツルギーの大作です。
名作『仮名手本忠臣蔵』のタイトルにある「仮名手本」の意味は?
京都山科 春の大石内蔵助住居跡
この作品の誕生後、討ち入りストーリーは「忠臣蔵物」というジャンルさえ確立されて、その後の日本人の精神を左右するほどの影響力をもちました。『仮名手本忠臣蔵』は、不入りの際の切り札、いつ上演してもよく当たる「芝居の独参湯(どくじんとう=気付け薬)」と呼ばれて、今に至ります。
『忠臣蔵』の芝居がこれほど多くの日本人に支持された理由は、春の殿中刃傷の場面から雪の中の討ち入りまで四季が描かれていること、五代将軍綱吉の権力政治の不公平を糾弾したこと、赤穂浪士が死を賭して仇討ちをやり遂げたこと、などが挙げられています。百人百様、それぞれの忠臣蔵への思いが生まれる作品なのでしょう。
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また、『仮名手本忠臣蔵』劇中の有名な「おかる勘平」。実際にはお軽のモデルは特別おらず、勘平のモデルは、仇討ちの「忠」と父親の命への「孝」の板挟みから切腹したといわれる、萱野三平とされています。
そして、討ち入り時に大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を叩いたのは、講談や芝居による創作でした。実際は、総 (ふさ) のついた指揮具である采配を振るったようです。更には、史実では討ち入り決行時には、雪は止んでいたのです。
けれども、『仮名手本忠臣蔵』には、降りしきる雪と陣太鼓の合図の中、赤穂浪士達が覚悟を決めて討ち入る光景こそが、もっとも相応しい。雪の情景によって、観客は義士への賞賛のみならず、共感や同情、死者への鎮魂の心も寄せたことでしょう。そんな江戸の人々と私たちが、観劇で心を繋ぐことができることは素晴らしいですね。ドラマや映画も良いですが、一度は原型の歌舞伎文楽での『忠臣蔵』体験をお勧めします。意外な感情の起伏が生まれることでしょう。
参考文献:
西山松之助 監修『図説 忠臣蔵』(河出書房)
竹内誠 監修『忠臣蔵の時代』(日本放送出版協会)