勤労感謝の日とは、もとは新嘗祭の日。柳田国男の言葉から、稲の恵みについて思い起こしてみよう
古代からの宮中儀式・新嘗祭から、勤労感謝の日へ
新嘗祭とは、新穀を神にささげて収穫を感謝し、きたるべき年の豊穣を祈る祭儀。天皇が新穀を天神地祇に供え、みずからもそれを食する宮中儀式で、古代から続けられています。古くは陰暦11月第2の卯の日で、1873年以後は11月23日と定められ,戦後は多くの神社でも行われるようになりました。
天神地祇とは「てんじんちぎ」と読み、天つ神と国つ神、高天原(たかまがはら)に生まれた神と、葦原の中つ国に天降った神の意味をもちます。稲の収穫をもたらす、天と地のあらゆる神々に感謝を捧げる祭儀の日が、新嘗のまつりなのですね。
柳田国男の最後の著作『海上の道』。最終章が『稲の産屋』
柳田国男は貴族院書記官長を退官後、国内を旅して民俗・伝承を調査し、数多くの著作を残しました。岩手県遠野市に伝わる昔話、伝説を集めた『遠野物語』が有名ですね。柳田国男の生涯の関心事は、「日本人はどこから来たか」への考察でした。
最晩年の『海上の道』は、日本人の源流が稲を携えて、中国大陸から琉球諸島を経て日本列島へと島伝いに海上の道を渡ってきた、という仮説を提示したものです。この仮説に対しては賛否諸説がありますが、柳田国男が流れ着いた椰子の実について島崎藤村に語ったことで誕生した、『椰子の実』の唱歌のエピソードは有名ですね。
稲作への遠い記憶、稲霊の誕生への祭りの原点
文章そのものは学説論文とは対極にあるような、遠い記憶をゆらゆらと辿るが如くの、詩や文学や、神話でさえもあるかの世界観です。ここで柳田国男は、ニヒナメのニヒは、新しいという意味ではなく、ニホあるいはニョウを起源として「稲を穂のままに、ある期間蔵置する場所」すなわち「稲の産屋」だったのではないか、と語っています。新嘗祭がもつ、稲霊の誕生と相続をことほぐ祭の原点を思い起こしているのでしょう。
穀母の身ごもる日~柳田国男の最後の言葉
『稲の産屋』は以下の文章で閉じられます。柳田国男が最後に私たちに伝えた言葉はとても優しくあたたかくて、人々の営みへの眼差しを感じます。
“ともかくも霜月二十三夜の前後、月の半輪が暁の空に、傾く頃が冬至であり、またおそらくは西洋のクリスマスでもあった。ここを一年の巡環の一区切りとして次のうれしい機会のために備えようとする考えは、大地にいたずく人々にとっては、ことに忘れがたきものであったと思う。指を折って干支(かんし)を算える技術を学ばぬ以前から、すでに我々は穀母の身ごもる日を予知し、またそれを上もなく神聖なる季節なりと、感ずることを得たのであった。”
参考文献:柳田国男『海上の道』(岩波文庫)