斑鳩はなぜ「いかるが」なのか?古代ミステリー、七十二候「霜止出苗(しもやみてなえいずる)」
キジバト
奥が深いハト沼。身近なハトをおさらい
おなじみの鳩といえば…
南から渡ってきた夏鳥のツバメもすでに巣がけをはじめていますし、私たちのもっとも身近にいるレギュラー野鳥のビッグ3、カラス、スズメ、ハトも、こぞって晩春から初夏にかけて繁殖期に入ります。カラスのオスたちはメスの獲得バトルで明け方から大騒ぎ。やがて、つがいになると営巣して子育てを始めます。スズメも、雛の餌となる虫が増えだす頃に営巣して繁殖を始めます。ハトはというと、実はピジョンミルクという育雛用の食べ物を与える特殊能力がオスにもメスにも備わっているため周年繁殖することが出来るのですが、それでもやはりこの時期は繁殖のピークに当たります。
普通に私たちが見かけるハトは、首元がメタリックな虹色で、胴体と頭が青灰色、羽に白いカラーがあらわれるいわゆるドバト(正しくはカワラバト Columba livia) と、うっすらと葡萄色がかった体色に、背中と羽に複雑なウロコ状のキジのような模様が入るキジバト(雉鳩 ヤマバトとも Streptopelia orientalis)の二種です。このうちキジバトは正真正銘の日本在来固有種で、日本のハトの代表選手と言っていいでしょう。一方キジバトよりも都会では数が多いドバトは、大陸のカワラバトが家畜化され再野生化したもの。ドバトという名前は「堂鳩」で、お堂(寺院)によく見かけることからそう呼ばれるようになったという説があります。日露戦争時代に軍の伝令用の伝書鳩として盛んに利用されて以来、野生化したものが大幅に増えたようです。
埼玉県東南部(越谷市、吉川市)と千葉県北西部(野田市、流山市、松戸市)と茨城県南東部(常総市・坂東市)の元荒川流域にわずかにしか生息しないのがシラコバト(白子鳩 Streptopelia decaocto)。しかしこのハト、天然記念物に指定されているため生粋の在来種と思われがちですが、かなり怪しく、江戸時代に輸入された外来種の可能性が濃厚です。全身が白褐色で、首に黒い首輪のようなポイントカラーが入ります。江戸時代には狩猟用のタカの餌にされ、このためお狩場のあった越谷市付近の数が多く、明治の狩猟解禁での乱獲の中で、唯一この近辺のみが生き残ったようです。このシラコバト、首の黒い模様から「ジュズカケバト」(数珠掛け鳩)とも言われていますが、この別名から後にある混乱が生じました。
「鳴鳩払其羽」再考察。ジュズカケバトの正体は?
シラコバト
・中型~準大型
・猛禽・水鳥ではない
・つがいの仲がよい
といった条件に合致する鳥に、広くあてはめられていたようなのです。
鳲鳩=カッコウは、別名「鳴鳩」とも言われます。誰もが知るあの高らかな歌声は、鳴鳩の名にふさわしいものですし、その高啼きが聞かれるのも初夏から盛夏ごろですから、カッコウが羽をふるってスタンバイする様子はこの時期の候としてぴったりです。ところが、現代日本の歳時記ではこの候の解説を「イカル、またはハトが羽をふるう」という意味に解説しているものがほとんどです。なぜそういうことになるのでしょう。それは鳴鳩とは「斑鳩」という鳥のことである、という説もまたあるからです。
「斑鳩」。普通に読めば「まだらばと」ですが、なぜか読みは「いかるが」です。あの法隆寺のある奈良県生駒郡の地域一帯の地名が斑鳩(いかるが)なのはご存知のとおり。一説では、聖徳太子(蘇我善徳)が推古天皇9(601)年に築いた宮殿の地域一帯にアトリ科のイカル(Eophona personata)、またはジュズカケバト(シラコバト)が多く見られたため、「いかるが」と名がついた、という解説がまことしやかにされますが、これは順序がまったく逆です。
イカルの説明は後回しにしますが、シラコバト=斑鳩という説が何故出てきたかについてまずは説明しましょう。
シラコバトには「斑=まだら」と呼べるような模様はありません。にもかかわらず、斑鳩=シラコバトとされるのは、「ジュズカケ」のほうに原因があります。ユーラシア大陸や台湾に広く分布し、日本でのキジバトのようによく見かけるハトがいます。このハトは中国名が珠頸斑鳩(ジュズカケマダラバト Streptopelia chinensis)。和名ではカノコバト(鹿の子鳩)という名前がついています。シラコバトとキジバトをあわせて二で割ったような体色。そして頚部に、襟巻きのような大きな黒いポイントカラーがあり、この黒地に、真っ白な水玉模様、つまり斑が入るのです。「斑鳩」とは正真正銘、このカノコバト(ジュズカケマダラバト)のことなのです。ところがこのハトがいない日本では、かつては普通に見られたシラコバトが「ジュズカケ」といわれる首の黒い模様が共通することから、ジュズカケマダラバトのことだと勘違いされたのです。こうして、斑鳩=シラコバトということになってしまったのでした。
ジュズカケマダラバトの鳴き声は、一般的なハトのくぐもった声と違い、澄んだ高い声で、中国や台湾ではこのハトの鳴き声の愛好者も多いほど。カッコウにも通じるその声から、ジュズカケマダラバトを「鳴鳩」と呼ぶ可能性もあるのではないかと考えると、カッコウ説に並び、ジュズカケマダラバト説も充分検討に値するように思われます。現時点で、浅学の筆者にはそのどちらであるかを断定する根拠がないため、今後、引き続き調べていきたいと思います。
「斑鳩=いかるが」読みに秘められた古代ミステリー
法隆寺
ここに後に、蘇我vs物部の戦争に打ち勝った蘇我氏系の聖徳太子が法隆寺を打ち建てます。聖徳太子、そしてその側近の秦河勝(秦氏)を象徴するトーテム(動物霊)こそハトでした。中国のキリスト教宗派・景教と同根の原始キリスト教はシルクロードを経て新羅系の渡来民・秦氏によって日本に伝わり、新羅系仏教と同化しつつ、聖徳太子の厩戸皇子神話として定着しました。
2014年、法隆寺補修工事で北室院の庫裏下から、「鵤寺」と墨書きされた土器が出土しました。これにより、創建間もない頃には、法隆寺が鵤寺と呼ばれていたことがはっきりしました。イカルがなぜ「イカル」と呼ばれるかは、「イカルコキー」とも聞きなせるキレのいい囀りから名づけられたと思われますが、その太いくちばしで硬い木の実をくるみ割りのように割り砕く際、豆を口にふくんで、クルクルと回す独特の習性から「マメマワシ」とも呼ばれます。イカルにとっては完全な音からくるこじつけに巻き込まれたかたちですが、漢字表記が定着していく上代期の中で、いかるがの地名に鵤が当て字になったことがわかります。平安末期の治承年間 (1177~81年)頃の「伊呂波字類抄」(橘忠兼)では、法隆寺について「斑鳩寺」の記載が見られますが、これは分類では「ハ」の項目に入り、当時は斑鳩を「はんきゅう」と読んでいたらしいこともわかっています。
もともと「いかるが」と呼ばれていた地域に聖徳太子が宮を立て、法隆寺を興した。地名にあやかり、この寺を推古期には「鵤(いかる)寺」と呼びならわしていたが、日本書紀編纂の平城京時代になると、聖徳太子/秦河勝=鳩の連想から「斑鳩」の字があてられて、こちらが一般的になっていった、ということなのでしょう。
ハトにしろ聖徳太子にしろ、到底ここでは書ききれない「沼」のような深さを持つジャンルです。それらに興味をもたれるきっかけになれば幸いです。
参照
隠された十字架―法隆寺論 (梅原猛 新潮社)
秦河勝と広隆寺に関する諸問題 (井上満郎 京都産業大学論集)
参考サイト
大和・いかるが考 (辻保治)
岩所神社(磐船神社)と哮峯
法隆寺別名「鵤(いかるが)寺」の墨書土器が初出土 奈良
珠頸斑鳩叫聲