平成時代が終わろうとする今、戦後日本を魅惑した「司馬史観」をのぞいてみませんか?

「戦後」を体現した歴史小説家・司馬遼太郎の誕生

弘川寺 西行堂
司馬遼太郎のほとんどの著作は、日本史の出来事や人物を題材にしたいわゆる歴史小説ですが、日本史といってもその多くが室町末期の戦国から安土桃山時代、そして江戸時代、明治時代~昭和前半までの近世~現代史にほとんど材を得たもの。日本史の中で人気のある時代と言えば、戦国時代と幕末/明治維新が双璧ですが、そうした歴史マニアの偏った好みの傾向を作り上げたのは、司馬遼太郎である、と言っても過言ではありません。1963年からはじまり、今なお続くNHKの大河ドラマで、もっとも多くの原作を提供しているのも司馬遼太郎です。戦後高度成長期(1955年~1973年)のはじまりとともに登場し、日本の絶頂期の経済成長と軌を一にするごとく、代表作を次々と発表します。そして、高度成長期が終わり、熱い時代から「しらけ」の空気が日本を覆い、「自分探し」がはじまるころ、司馬もまた小説家としては寡作となる一方、エッセーで日本人論・日本文化論を展開するようになり、あたかも日本人のアイデンティティをたずねて歩く巡礼のような連載「街道をゆく」を1971年にスタートさせ、連載は、1996年、司馬がこの世を去る直前まで書き継がれました。
「合理主義」「武士道」を理想化した司馬ワールド

竜馬が愛したという高知県「桂浜」
雑賀鉄砲衆を率い織田信長に抗した雑賀孫市(「尻啖え孫市」)、新撰組の副長で、洋服を好み実践的な戦法で知られた土方歳三(「燃えよ剣」)、曖昧模糊とした剣術の世界に合理的な理論と修行法を確立させた千葉周作(「北斗の人」)、北越戊辰戦争で政府軍を苦しめた河井継之助(「峠」)、近代日本の軍隊の礎を築いた兵法家大村益次郎(「花神」)など、近代合理主義の先駆となったような人物像。
強大な徳川家康に正義の戦いを挑んだ石田光成(「関ヶ原」)、明治新政府の種をまき、安政の大獄で死罪となった吉田松陰(世に棲む日日)、真田十勇士きっての実力者霧隠才蔵(「風雲の門」)など、命をかけて義と道理を貫く「侍」の生き様。
そしてそのどちらも兼ね備え、究極の理想像として描かれたのが、坂本龍馬(小説中では竜馬/「竜馬がゆく」)でした。薩長同盟を実現させ、日本に近代国家としての「夜明け」をもたらした最大の功労者として名をはせるスーパースター・土佐藩士坂本龍馬。明治政府で冷遇され続けた土佐藩の出身者たちが、坂本龍馬を主人公とした物語をアピールしてきた先例はありますが、そうした伝説をたくみに統合し、日本史屈指のヒーロー像を定着させたのはまぎれもなく司馬遼太郎です。しかし、その「竜馬」伝説は数々の創作や史実との齟齬を見せ、端的に言えば「歴史物」というよりは「神話」に近いもの。
史実を大きく逸脱したエピソードはたびたび批判もされ、小説内で書かれていることは事実なのか、と質問されることのあった司馬は、「自分は歴史学者ではなく小説家であり、答える必要はない」と反論しています。その上で「小説家といえども史実を捻じ曲げていいものではないとは思っている」と書いています。が、必ずしもその言葉は守られているとは言いがたいものがあります。
こうした司馬遼太郎の特徴的な小説世界を貫く作者の意図(テーマ)が、後に司馬自身によって語られることになる日本近代史論、すなわち「司馬史観」です。
戦後日本を呪縛した甘い夢。「司馬史観」とは何か?

記念艦「三笠」
また司馬は、大阪の生まれらしく、重商主義の考えを常に持ち、彼の言う「合理主義」とは、「無駄なこと、儲からないことはしない」「役に立つと思うことはどんどん取り入れる」という商人気質に近いものでした。逆に、司馬は役に立たない堅固な「思想」いわば理想主義を嫌い、このため、自刃した三島由紀夫の死と主張を、徹底的に批判しました。司馬は、こうした理想主義こそが、日本を無謀なアメリカとの戦争に駆り立てたと考えていました。その一方で、日清・日露戦争は、合理的実践者たる軍神たちによる美しい戦争としてとらえられました。
こうした司馬の考え方は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていると言えます。
言うまでもなくいかなる戦争も悪であり悲劇です。そして戦争において、絶対正義の国家もなければ絶対悪の国家もありません。歴史を学ぶとは、そうした客観性を身につけることですが、その点で司馬史観は、太平洋戦争という「悪夢」を憎む余り、明治と戦後昭和を無辜な理想世界としてしまったのかもしれません。
