そんな時、熱いお茶と甘いお菓子でひと休みしませんか?
「なにかなあい?」誰にでもある甘い思い出
お菓子になくてはならない甘い砂糖は8世紀に、唐から奈良に渡って唐招提寺を開いた鑑真和上によって伝えられたという説があります。当時の宝物を納めた奈良の正倉院には、蔗糖が麝香(じゃこう)などの薬とともに記された文書があり、当時は高価な薬と考えられていたようです。
大変高価な砂糖が庶民の口にも入るようになったのはいつのことでしょうか? それはずっと下った江戸時代、8代将軍徳川吉宗が砂糖造りを奨励して各地で白砂糖を作るようになったからなのです。琉球や奄美での黒砂糖の生産も増えたことからお菓子の文化はおおいに発展していきます。
「金平糖」を贈られた織田信長が許したものは何?
「金平糖」とはポルトガル語の[confeito]で砂糖菓子という意味だそうです。その頃の日本で砂糖はとても貴重な品ですから、初めてみる[confeito]を表す言葉さえなかったのでしょう。音をそのまま漢字に置きかえました。とはいえ「金平糖」はエキゾティックで魅力的な命名ではありませんか?
信長といえば、伝来したばかりの鉄砲を積極的に使い、南蛮貿易を推奨し南蛮風の衣装を好んで着るなどして、新しい文化を取りいれることを厭いませんでした。誰でも自由に商売ができることを認めた楽市楽座を起こし、通行料を払わなければ通れなかった関所を廃止して人々が自由に行き来できるようにしました。物流を促進し商業を活性化したのです。革新的な政策を実践した信長は宣教師ルイス・フロイスにキリスト教布教を許可します。天下人をめざした信長は、遠い異国からもたらされたガラス壜にはいった「金平糖」の向こうに、何を見ていたのでしょうか。
ひと切れの「羊羹」に触発された文豪たちの美意識
「あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石(ろうせき)の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。」
青磁の鉢に入った羊羹を見つめまわす漱石の視線を、読み手にもたどらせます。これを読んだ谷崎潤一郎は『陰影礼賛』で、
「かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。」
と漱石が賛美した羊羹を谷崎ならではの言葉で羊羹にやどる光の有り様を綴っています。谷崎の目はさらに器から室内へと広がります。
「だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」
ひと切れの羊羹に、かつて誰もが住んでいた日本家屋のほの暗さまでも集約させて味わおうとする谷崎の美意識の表現にことばを失います。
これから迎える冬そして新たな年には、たくさんの人といろいろなお菓子を味わいながら豊かな時をすごしたいものです。