「お水取り」が終わると春が来る! その歴史と東大寺の僧・公慶の物語
春の東大寺大仏殿
春を告げる行事といわれる「お水取り」は、奈良・東大寺で3月1日よりはじまり、今夜最終日を迎えます。約1300年前から一度も途絶えることなく続けられてきた奇跡の行法の由縁と、その長きにわたる歴史のなかで足跡を残したひとりの僧の物語をご紹介します。
私たち全員になり代って、懺悔し祈るありがたい法要
二月堂の壮麗なお松明
「お水取り」はあくまで行中の一部であり、旧暦2月に行われていたため「修二会(しゅにえ)」と呼ばれますが、正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか) 」。二月堂のご本尊である十一面観音の前で、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧たちが、人間がおかしてきたあらゆる過ちを発露(ほつろ)、懺悔(ざんげ)するのです。つまり、私たち人間すべてになり代わって、観音さまに罪を告白して許しを請うという、なんとも頼もしくありがたい法要なのです。
「声明(しょうみょう)」「達陀(だったん)」「五体投地」「走り」など、練行衆によるさまざまな祈りの行法によって罪過を取り除くとともに、「五穀豊穣」「天下泰平」「万民快楽」といった地球上のあらゆる命あるものの幸福を祈願します。この遥か古より続く壮大な法要は、毎年3月1日から14日まで2週間にわたって行われます。
実際にあった!「お松明の火」で火事
この日の深夜(13日午前1時半頃)に、二月堂を下ったところにある若狭井(わかさい)という井戸から、本尊の観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式があります。そのため、「修二会」は「お水取り」と呼ばれるようなりました。
ところで、木造の二月堂で毎夜のお松明、火事の心配はないのでしょうか。実は一度、大事件が起こりました。時は江戸時代の1667年、修二会の13日目に達陀の行の残り火から出火して、二月堂が焼失してしまうのです。この時、お務めをしていた練行衆のなかに、後に東大寺の大仏と大仏殿の再興を実現した僧「公慶」がいました。
大仏殿再建に尽力した公慶、無念の過労死…!?
公慶が再建に尽力した大仏殿と大仏さま
1684年、37歳の公慶はついに江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭(いっしはんせん)」を唱えて勧進(寺社・仏像のために寄付を募ること)を進めます。全国にくまなく行脚し、7年後には1万1千両を集金。現在の金額に換算すると、なんと約10億円にのぼりました。1692年には悲願の大仏の修理が完成し、開眼法要を行います。その後も不屈の精神で勧進を続けましたが、大仏殿の落慶を見ることなく江戸の地で57歳の生涯を閉じました。過労死といわれています。
大仏殿が落慶したのは、公慶の没後4年目のことでした。現在、私たちが目にする大仏殿、中門・廻廊・東西楽門は、公慶が命をかけて再建したものなのです。東大寺勧進所内にある公慶堂に安置された公慶像は、頬がこけて左目が赤く充血しています。そのやつれた姿からは相当な苦労が偲ばれますが、視線は力強くまっすぐ前を見据えています。
大仏殿の炎上から100年を経て、朽ち果てた大仏の姿に心を痛めた公慶。その公慶が、1300年を数える歳月のなかでたった一度のお水取りによる火事に遭遇した偶然には、歴史の綾を感じずにはいられません。1265回目の修二会は今夜が最終日。「お水取り」が終わると、古都に春が訪れます。
伊藤みろ『心のすみか 奈良』ランダムハウス講談社 2010
参考サイト
華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
奈良ストーリー