桜の花びらのような肌を描いたパスキン・・・45歳は、もう遅いですか?

『エコールド・パリ』の王子さま
生誕130年にあたる今年、パスキンの回顧展が東京の汐留で開催されています(リンク先参照)。
パスキンはあちこち移り住みながら活動したボヘミアン画家でしたが、もっとも活躍したのは『エコールド・パリ』全盛のフランスでした。
1920年代、パリのモンパルナスに集まった外国出身の芸術家たちのことを『エコールド・パリ』といいます。「パリ派」という意味ですが、何か統一された思想や作風を指すわけではなく、中には異邦人差別をこめてこの言葉を使う人もいたそうです。芸術家の中には、パスキンと親友だった日本出身のレオナール・フジタ(藤田嗣治)やポーランド出身のモイーズ・キスリングがいました。見知らぬ国で芸術家として認められるには、さまざまな苦労があったことでしょう。
ただパスキンはすでに雑誌の挿絵で収入を得ていたので、仲間の多くとは異なり経済的には裕福でした。集うカフェで友人たちに気前よくご馳走する人気者で、「モンパルナスの王子」と呼ばれていたそうです。しかも写真を見ればクールなイケメン。時折見せる (たぶん) 繊細で寂しげな横顔に多くの女性がキュンと刺激され、白い馬すら見えたのでは?と思います。
常に描いていた手の最後の仕事は
展示されている作品のほとんどが、衣類少なめ(または無し)の女性像です。ほぼ全員が、ダイナマイトボディ…というよりは母性を感じる豊満さの、緩やかな肉体。スタイルの是非はともかく、肌色が本当に美しく、内側から輝くような憧れの美肌なのです!
『ジナとルネ』のようにモデルさんたちの名前を題名に使い、絵の女の人たちも寛いだ様子でうたた寝したりしていて、普段から気を許して親しく生活を共にしていたことがうかがえます。描く視線に優しさがあると評判です。
そしてなぜか多い、女性が2人並んだ絵・・・そこには、女性どうし特有のイイ感じの親密さがあるような気がします。「女子が2人でいる平安」を見抜くとは、さすがパスキンですね!
パスキンはいつでもどこにでも素描していたようです。カフェ仲間との集合スナップ写真でも、彼は端っこで手にペンを持ち、紙(らしきもの)に何か描いています。呼吸と同じくらい生活の一部だったのでしょう。だからこそ、晩年の画廊との契約を束縛と感じてしまったのかもしれませんね。
その手で最後に描いたのは、愛人リュシーさんへの遺書でした。しかも浴室のドアに、血で・・・。
『真珠母色』は、お母さんの色?
亡くなる年に描かれた『三人の裸婦』は、不安というよりむしろ安らぎを感じる暖色です。退廃的と言われることの多いパスキンですが、絵を描くことは、暖かい癒しの行為だったのではないでしょうか。
『真珠母色』は貝殻の内側、真珠のお母さんの色・・・羊水の中をたゆたうように震える線は、優しくノスタルジックです。安心して甘えて守られたい欲望が、子供の頃からずっと満たされなかったのでは・・・と、見ていて切なくなります。
リュシーさんとの不倫、束縛と感じる画廊との契約、アルコール依存症、ユダヤ系画家としての孤独。それらが彼を追いつめたのではといわれています。生前パスキンは、こう語っていたそうです。
「人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、もはや何もないだろう」。
45歳・・・どうにも大人としてしか生きられない年齢です。
これから、どこまで弱くなるのか。本当に「もはや何もない」のか。
皆様はどんなふうに感じられるでしょうか?
桜色をした真珠の肌を、ぜひご覧になってみてください。