東日本大震災から10年 津波被災体験を振り返る いつまでも忘れない 現実から目をそらさないで
大きな地震が前々日、前日の2回 まさか巨大地震の前触れだったとは
2011年3月11日午後2時46分 反復する激しい揺れ
※東日本大震災の本震は単発の地震ではなく、日本海溝沿いに次々と破壊が広がり、M8クラスの複数の巨大地震がわずか数分の間に連動して起きたものとされています。
避難行動を躊躇させる「正常性バイアス」の恐ろしさ
時折、4階の窓から運河沿いの様子を見ていましたが、いっこうに水面は変化がありません。午後3時30分頃から釜石など三陸沿岸に津波襲来したとの情報は聞きながらも、だんだんと「ここには津波は来ない」という根拠のない思いがよぎりました。いわゆる、「正常性バイアス」に陥っていました。
※正常性バイアスとは、人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)のことを指します。
「ここには津波は来ない」とは思っていたものの、津波は遅れて襲来しました。その時は自宅3階より上で、地震の後始末などをしていたので、ことなきを得ましたが、平屋だったら無事では済まなかったでしょう。仙台湾一帯で多数の犠牲者を出した石巻市、東松島市、仙台市の沿岸部、名取市閖上地区など、こうした「正常性バイアス」と無縁ではなかった可能性があります。
2011年3月11日午後3時55分 大津波襲来
唯一の情報源となっていたラジオは刻々と、現代日本にとって未曽有の大災害が起きている事実を伝えていました。広域で携帯電話基地局が被災し、SNSは情報源になり得なかったのです。余震は数分おき、間断なく揺れている状態。30分に1回位は強い揺れが襲ってきました。まさに昔みた映画「日本沈没」の1シーンそのままでした。
無情の雪・星降る夜
雪の降っていた時間は短かったものの、夜は晴れて気温は氷点下へ。暗くなって水が引き、外からはサーチライトとともに「誰かいますか!!」と、人を呼ぶ声が聞こえました。気温の低下でいったんは助かった多くの命が低体温症で奪われたと聞いています。まさに「無情の雪」になりました。その日の夜は広域停電で降るような星空に。あの空は十年経ったいまでも忘れられません。生涯忘れることはないでしょう。星々はあの日、天に昇った二万の命だったのでしょうか。一方、仙台港のコンビナート火災が拡大し妖しい光も見えていました。時折、爆発音も聞こえていました。
泥と悪臭との闘い 高まる衛生面の不安
あとは泥との格闘でした。一面に堆積した汚泥(ヘドロ)のにおいと北側の通称「やみ市」から流れ出した大量の魚の腐敗臭が混ざって、形容しがたいにおいです。異臭に耐えながら、ひたすら泥を国道側にかきだしました。あっという間に着ているものや頭は泥だらけになります。衛生面は劣悪な環境になっていました。断水で手も洗えないため、感染症との恐怖とも闘いました。真っ先にホームセンターで消石灰を調達し、家の周囲にこれでもかと思うくらいに大量に撒きました。
ただ、被災地全体で極端な物資不足に陥り、開いている店に足を運んでも、棚に商品はなく、一人何品までなど、購入制限がかけられているような所がほとんど。開けているガソリンスタンドには、数キロもの長蛇の列。これ以来、車のガソリンは、「燃料計が1/2切ったら給油」の習慣がつきました。ただ、被災後、本当に助けられたのは、職場からの支援です。食料品、飲料水はもとより、ガソリン、ポータブルコンロなど、ありとあらゆるものを援助していただきました。
全壊判定の自宅への避難~転居まで3か月
※繰り返しになりますが、ネット、SNSは全く使えませんでした。
電気、水道、ガスなど、ライフラインの復旧には半月程度かかりました。このとき、親はすでに高齢となっていたこともあり、仮設や避難所は選択せず、いわゆる自宅避難の形をとっていました。ただ、前述の通り当時築51年の実家は、地震と津波のダメージにより、もはや住める状態ではなく、「全壊判定」もでていたので、転居先の選定を急いで進めました。同様の事情で壊滅状態となった沿岸部から仙台市の内陸部などに転居する世帯が増えたため、住宅事情は逼迫していたものの、幸い3か月で転居することができました。
この経験は絶対に忘れてはならない そして未来へ伝える
「災害は忘れたころにやってくる」と言われますが、決して忘れてはいけません。現実から目をそらさないでください。もしものために、この機会にいまいちどご自分の身の回りの状況を確認し、災害への備えを行いましょう。