煤払いと忠臣蔵の関係は?ー12月13日の歳時記
陣屋煤払い
ところで元禄 15 (1702) 年、煤払いの翌日の12月14日夜半に起こったのが、赤穂浪士討入事件。その前夜に俳人二人が出会った物語が、忠臣蔵もので生き生きと語られています。そんなエピソードを覗いてみましょう。
煤はきやなにを一つも捨てられず
正月準備の松迎え
煤払いは、当時から俳句にもバラエティー豊かに描かれています。
・旅寝して見しやうき世の煤払ひ
〈芭蕉〉
・煤掃てしばしなじまぬ住居かな
〈許六〉
・煤はきやなにを一つも捨てられず
〈支考〉
・煤払て寐た夜は女房めづらしや
〈其角〉
・我が家は団扇(うちは)で煤を払ひけり
〈一茶〉
これが世の中の煤払いなるものかと、旅の途中に浮世離れした目線で呟いている芭蕉。しかしその芭蕉の門弟たちの句は、もっと庶民感覚です。許六は、煤払いで綺麗になった自宅がかえって居心地が悪そうですし、支考は、せっかくの大掃除なのに結局断捨離できなかった、と愚痴る始末。其角の「めづらしい」は、古語での「すばらしい」「新鮮である」の意味と思われ、奥さん思いで微笑ましく。のちの世代の一茶に至っては、我が家の大掃除は竹箒を使うほどでもない、団扇で充分だ、と少々自虐モードです。
年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船
江戸東京博物館のミニチュア(両国橋)
その発句に対して源吾が「あした待たるる その宝船」と返し、討ち入り決行をほのめかしたという逸話があり、歌舞伎の『松浦の太鼓』では大事な鍵となっています。どうやらこのエピソードはフィクションだったようですが、実際に源吾と其角は交流がありました。宝船が正月や吉報を意味することからも、年の暮れや煤払いのリアリティーが膨らみます。
上野より富士見ゆる日や煤払ひ
現在の両国橋からスカイツリーを望む
・吊鐘の中掻きまはす煤払
〈吉岡句城〉
・命綱つけて天守の煤払ふ
〈伊藤一子〉
・煤払でんでん太鼓捨てきれず
〈半崎墨縄子〉
・煤払ひ神官畳めつた打ち
〈林 徹〉
・煤払ふ忍者屋敷の忍者たち
〈八鳥泗静〉
・上野より富士見ゆる日や煤払ひ
〈沢木欣一〉
【句の引用と参考文献】
『新日本大歳時記 カラー版 冬』(講談社)
『カラー図説 日本大歳時記 冬』(講談社)
『第三版 俳句歳時記〈冬の部〉』(角川書店)