日本に恋したラフカディオ・ハーンー9月26日は八雲忌
松江 カラコロ広場の小泉八雲像
日本全部が欲しいのだ
松江 小泉八雲旧居
1884年、博覧会で見た日本の展示物に興味を持ったハーンは、2年後にニューヨークへ移り、西インド諸島、フランス領マルティニーク島でのルポタージュを執筆。次に命じられた取材地である日本に渡航したのは1890(明治23)年、39歳の時でした。当時の欧米では、東洋へのエキゾチシズムが高まっていたのです。到着早々、横浜での一日目を描いた作品「東洋の土を踏んだ日」からは、ハーンの浮き立つ様子が直接伝わってきます。
「小さな妖精の国――人も物も、みな、小さく風変わりで神秘をたたえている。青い屋根の下の家も小さく、青いのれんを下げた店も小さく、青い着物を着て笑っている人も小さいのだった。」こぢんまりと優雅で、ゆったりと穏やかな世界は、イギリスの昔話で育まれた想像力の持ち主、すなわちハーンにとっては、「夢見た妖精の国の夢が、とうとう現実になった」と語るのです。
街を行き来して、見たものをすべて買いたくなる、とハーンは悶々。けれども「内心、真に買いたい」のは「店であり、店主であり」「いや町全体、その町を取り巻く入江と山々」「不思議な魅力を持つ樹木、光みなぎる大気、神社や寺院、くわえて全世界でもっとも愛すべき四千万の国民をひっくるめた、日本全部が欲しいのだ」。手放しの惚れ込みようです。
神々の国の首都
小泉八雲旧居の南の庭
日清戦争集結翌年の1896年、家族の今後への配慮もあり、45歳のハーンは日本に帰化。小泉八雲と名乗るようになります。「八雲」は、古事記の古歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」からのものでした。
「日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似をしますか」と常に節子夫人に語り、万事西洋風よりも日本風を好んだ八雲。彼が大切にしたのは、蛙や、蝶や、蟻、蜘蛛、蝉、夕焼け、夏、芭蕉、淋しい墓地、蓬莱など、小さいもの、はかないもの、夢の中のようなものだったといいます。
日本の風土や精神性を広く海外に紹介する一方、八雲は英語や英文学の講義も人気で、最後の勤務地・早稲田大学には、小川未明、野尻抱影、坪内逍遥らが誘致運動を起こしました。しかし残念ながら、勤めが始まってから半年の1904(明治37)年9月、八雲は狭心症のため54歳で急逝。日本がロシアに宣戦布告、日露戦争が始まった年でした。
雲に入りなほしづむ日やヘルンの忌
小泉八雲旧居の北の庭
「はいて歩くと、いずれもみな右左わずかに違った音がするーー片方がクリンといえば、もう一方がクランと鳴る。だからその足音は、微妙に異なる二拍子のこだまとなって響く。」
常に、人々の生活の音、鳥の囀り、子供たちの笑い声などに耳を澄ませた八雲。松江では、立ち上る雲の様子や、宍道湖の日没などを彩り豊かに描きました。改めて八雲の著作を読めば、その鮮やかで生き生きとした描写力に驚きます。小泉八雲を舟先案内人にして、あらためて妖精たちの国、神々の国を冒険する楽しみも増えそうですね。
では最後に、八雲忌の句をご紹介します。さまざまな物語の余韻が残ります。
・八雲忌の蜻蛉木槿に戻しやる
〈萩原麦草〉
・八雲忌や飽かず眺める海の色
〈中道千代江〉
・金のペン先を買ひ替へ八雲の忌
〈村上 清〉
・笹掻きの牛蒡匂へり八雲の忌
〈松井禮子〉
・雲に入りなほしづむ日やヘルンの忌
〈高橋博夫〉
【句の引用と参考文献】
『ザ・俳句十万人歳時記 秋』(第三書館)
小泉 八雲(著)平川 祐弘(編)『神々の国の首都』(講談社)
ラフカディオ・ハーン(著) 和田 久実(監訳)『小泉八雲 日本の心』(彩図社)