女子教育の先駆け、津田塾大学。キャンパス周辺は、桜も楽しみな散歩の名所
津田塾大学本館校舎(東京都選定歴史的建造物)
後に続く伊藤博文との縁は、アメリカ行きの船上から
1871年(明治4)、欧米視察の岩倉具視大使一行がアメリカへ旅立つ船上に、開拓使が募集した5人の女子留学生が同行していました。最年少、満6歳の少女が津田梅子。船上やアメリカ滞在中のホテルで、心細い少女たちを幾度となく慰め、幽霊の話やおとぎ話を語りに来てくれたのが、同行した伊藤博文だったようです。年長の二人の少女は渡米後、すぐにホームシックや病を抱え帰国してしまいますが、残った4歳上の山川捨松、1歳上の永井繁子と梅子の三人は、互いに生涯の盟友・親友となります。
わずか6歳で、使命と責任を自覚していた梅子
津田塾大学キャンパス
帰国後のカルチャーショックを経て、奮闘する梅子
新緑の季節の玉川上水
実は、女学校をつくると先に決心していたのは捨松でしたが、彼女は参議陸軍卿・伯爵の大山巌に見初められて、結婚。「鹿鳴館の花」と呼ばれた社交界でひるむことなく、日本初の慈善バザーを開き、留学で得た看護婦資格を生かし日本赤十字社で戦傷者の看護も行うなど、社会貢献の道を拓きます。ワシントンで音楽を学んだ繁子は、海軍士官の瓜生外吉との、当時では珍しい恋愛結婚ののち、女子音楽教育のパイオニアとなりました。
やがて梅子は伊藤博文家の英語通訳兼家庭教師となり、その縁で華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備にも関わり、教師としても勤務。再度の英米留学で教授法などを学んだ後、ヘレン・ケラーやナイチンゲールを訪問するなど、積極的に人脈ネットワークを開拓していきます。
そして1900年(明治33)、ついに「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指す私立女子高等教育機関、「女子英学塾」を創設します。梅子はこのために、実に多くのアメリカの友人に向けて、資金援助を依頼しています。塾の開設は、いわば人力版クラウドファンディングを成し遂げた梅子の熱意と、繁子や新渡戸稲造ら、日米の友人たちの尽力に依るもの。関東大震災の被害で当初の開設地、麹町から小平に学校を移転できたのも、同窓会の募金のおかげでした。捨松も顧問として理事として、死の直前まで、梅子と塾への協力を惜しみませんでした。
現・津田塾大学のキャンパスは、自然豊かな玉川上水のほとり
桜の季節の玉川上水
参考文献:亀田帛子著『津田梅子 ひとりの名教師の軌跡』(双文社出版)