ブラジルへ渡った移民の偉業~日伯外交関係樹立120周年の締めくくりに~
リオ・デ・ジャネイロ
ブラジルは世界最大の日系人居住地
サンパウロ リベルタージ 大阪橋にかかる鳥居
そしてブラジルは、約160万人にも及ぶ日系人による、世界最大の日系人居住地です。その歴史の始まりこそが、1895年の「日伯修好通商航海条約」。ブラジル政府が、コーヒー園などで働く農業労働者の確保のために日本人の移民受け入れを表明してから3年後の、正式な外交関係の樹立でした。
1908年、日露戦争の海軍戦利品「笠戸丸」で、最初のブラジルへの移民が出航します。新天地を求めて海を渡った人々を待っていたのは、凶作や劣悪な環境の中の、筆舌に尽くしがたい苦難。それでも数年間のうちには、少しずつ作業に慣れたり資金を貯めたりと、自営農として独立する日本人が現れます。やがて彼らは日本人集団地をつくり、親睦・互助のために日本人会を組織するようになります。彼らが真っ先に作ったのは、帰国しても子供たちが困らないようにという、日本語教育による学校でした。
ここにも戦後70年、ブラジル移民のさまざまな苦労が
しかし状態が落ち着き1951年に日伯国交が回復すると、日本からの移民の受け入れが再開され、活躍の幅も養蚕、園芸、開発事業、工業などに拡がります。そして「錦衣帰郷」を夢見た一世の人々の多くも永住を覚悟するようになり、子孫のための教育熱もますます高まりました。
紅茶、胡椒、リンゴ、養蚕…多様な生産の物語
ブラジルの農場・大豆畑
ブラジルは、紅茶王国と言われた時期もありました。1934年にセイロン(スリランカ)で入手したアッサム種種子によってブラジルに紅茶産業を興したのが、紅茶王と呼ばれた岡本寅蔵氏。かれら日系人の手で、1980年代にはブラジルは世界有数の紅茶輸出国となったのです。その後紅茶産業は国際競争力を失ったものの、「天谷茶」をはじめ、祖先が興した茶業の再生に挑む人々もいます。
また、スカーフで有名なフランスの高級ブランドは、ブラジルの「ブラタク製糸」の生糸の品質を高く評価し、シルク製品の原料の多くを仕入れています。この会社は、日系移民らが日本の養蚕、製糸技術を導入して発展しました。ブラジルは現在、世界最高品質の絹の生産国の一つなのです。
また、ジュート麻と胡椒は、日系移民の貢献によってブラジルの新産業の作物となり、輸入していたリンゴは「フジ」の導入によって輸出作物となりました。花卉については、サンパウロなど都市近郊の花卉農家の大半は日系農家であるといわれています。
「Japones Garantidoジャポネース・ガランチード」
今ではブラジルでは「Japones Garantidoジャポネース・ガランチード」(日本人であれば信頼できる、信用するに値する)という概念が確立しています。ブラジルの日系人は農業関連のみならず、その勤勉さと教育水準の高さから政界や官界、経済界、芸術、文化、スポーツ等を含む多様な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献しました。大変な苦労の末に大きく花開いた移民の方々のエネルギッシュな偉業を、農作物など身近な例からも、感じていきたいものです。