おぎやはぎの荻に秋の気配~平安和歌に見られる荻~
荻は薄(すすき)のよう
〈荻の葉をよくよく見れば今ぞ知る ただ大きなる薄なりけり〉
和歌では万葉集に三首詠まれていますが、古今集にはなく、その直後あたりから多く詠まれるようになったようです。
〈いとどしく物思ふ宿の荻の葉に 秋と告げつる風のわびしさ〉
これは、古今集に次ぐ後撰集の秋上に入っている歌です。作者が物思いをしている家の前の荻の葉に、侘しさを誘う風が吹き渡り、秋の訪れを知らせるよと詠んでいます。秋の訪れは、古今集の名歌、
〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる〉
にあるように、風が知らせるとされています。荻の特色はその高さで、上葉を風がそよぎ吹くことが好んで詠まれ、荻の葉を吹く風は秋の到来を示します。
荻の特色は背の高さ
〈ほのかにも軒端の荻を結ばずは 露のかごとを何にかけまし〉
「結ぶ」は、契りを結ぶ意で、かすかでも、あなたと結ばれていなかったら、今あなたに会えないことへの露のようなはかない愚痴を何に出せるでしょうと、型通りに恋心を訴えたものです。この歌を源氏は「高やかなる荻につけて」送ります。彼女の背が高いことにちなんで荻に喩えたのでしょう。
荻の風にそよぐ音は恋人の訪れを連想させる
〈さらでだにあやしきほどの夕暮れに 荻吹く風の音ぞ聞こゆる〉
これは、後拾遺集の一首ですが、村上天皇の妃だった斎宮女御(さいぐうにょうご)が、天皇がひさしぶりにこっそり女御に会いに来た時、気づかないふりをしながら詠んだ歌です。
筆者なりの解釈ですが、格別なことがなくても不思議なほど人恋しい秋の夕暮れに、荻を吹く風が待っていた人の訪れかと勘違いするように聞こえますと、わざと天皇の訪れに気づかなかったように詠んでいます。
このように、荻の風による音と恋人の訪れが重なる場合と、次のように比較として出される場合とがあります。
〈秋風の吹くにつけてもとはぬかな 荻の葉ならば音はしてまし〉
これは、後撰集の恋部にある、中務(なかつかさ)という女性が最近訪れのなくなった恋人に送った歌です。「秋」には「飽き」が響いています。秋が来て、あなたは私に飽きたのでしょうか、風が吹いても来て下さらないですね。荻の葉ならば風で音を立てるでしょうに、あなたは音沙汰がないですね、という内容です。訪れない男を、秋風で音を立てる荻の葉を引き合いに出して恨んでいます。これは女の歌ですが、男が詠む場合もあります。男女とも相手の薄情を責める時に、風で音を立てる荻と対比させています。
こちらは萩(はぎ)
〈笛の音のただ秋風と聞こゆるに など荻の葉のそよと答へぬ〉
と詠みます。男の笛は秋風が吹いてくる音と聞こえるのに、なぜ女は荻の葉が風にそよいで音を立てるように、はいと返事をしなかったのでしょう、と男の誘いに反して、そっけない女の対応をいぶかしく思う気持ちを詠みます。一方、妹の歌を聞いた姉は、次のように詠みます。
〈荻の葉の答ふるまでも吹き寄らで ただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き〉
女が心を折って答えるまで吹き続けもせず、さっさと過ぎてしまった笛の音(男)ががっかりです、といった内容です。訪れて女を呼ぶ男の積極性を素直に良しとする妹と、女の立場でなお熱心さを求め男の本気度を測る姉という、二人の人生経験の差が、それぞれの歌い方にあざやかに描かれています。
上で見たような荻についての具体的な人の訪れと関わらせた詠み方は、平安時代後半に入った後拾遺集ごろがピークのようです。その後については、例に新古今集にある藤原良経の一首を挙げますが、
〈荻の葉に吹けば嵐の秋なるを 待ちける夜半のさを鹿の声〉
荻の葉に吹くと嵐になる秋なのに、それを待っていたように鳴く夜更けの鹿の声だよ、という内容で、こうした秋の寂しさを歌うしみじみとした哀感を主とした歌が主流になります。
まず、荻とはどんなものなのかを確認した上で、風にそよぐ様を思い、秋の季節を早く感じたいものです。
参照文献
歌ことば歌枕大辞典 久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)
和歌植物表現辞典 平田喜信・身﨑壽 著(東京堂出版)
源氏物語、更級日記(小学館 新編日本古典文学全集)