「宮中歌会始」締切迫る!今生の思い出として来春の歌会始へ応募しようか?
来年の勅題は何でしょう?
そして来年早々の行事といえば「宮中歌会始」。詠進歌(宮中へ応募する歌)の締切が今月末日となっていますが、皆様も一度チャレンジしてみてはいかがでしょう。「歌会始」の歴史と歌の変遷を紐解きつつ、詠進に当たっての傾向と対策(?)を考察してみましょう。
古来より歌を好んだ日本人主上(おかみ)と遊ぶ三十一文字に
そして「歌会」の中でも、天皇が年の始めに主催される歌会が「歌会始」。江戸時代からはほぼ毎年行われて来ました(ただし、昭和期以前の名称は「歌御会始」)。天皇が出されるお題を、特に「勅題」と言います。
明治期の難解すぎる「勅題」に昔の人の教養を知る
明治天皇は和歌をことのほか好まれ、およそ50年の生涯で詠まれた和歌は何と約10万首!!
その即位後初めて出された勅題は、明治2年「春風来海上」、
「千代よろづ変はらぬ春のしるしとて海辺をつたふ風ぞのどけき」
明治天皇、御年15歳の御製(天皇のお歌)です。
ちなみに古来からの和歌のお題は、全て漢文表記である事がルールでした。
ところで翌年以降に出された勅題を並べてみると…。
「春来日暖」「貴賤迎春」「風光日々新」「迎春言志」…。
勅題は毎年変われど、そのココロは全て同じ。「新しい年の訪れをことほぐ」というものです。
年の初めに祝いの言葉を述べ、言霊の力で幸いを招く。これぞ元祖「引き寄せの法則」と言えましょう。が、綿々と同じテーマが繰り返された訳でもありません。
明治13年「庭上鶴馴」、明治22年「水石契久」…何とも難解な勅題です。
こうした勅題の歌が詠めた当時の日本人の教養の高さに驚くばかりですが、一般の詠進が始まったのは明治7年から。その折に寄せられた歌の数は4139首でした。
激動の時代を生きる人々の思いは滲む短き歌に
太平洋戦争に突入した翌年の昭和17年「連峯雲」
詠進歌数46106首は空前絶後の多さです。
御製「峰つづき覆ふむら雲吹く風の早く祓へとただ祈るなり」
選歌(詠進歌の中から入選した歌)
「大筒(おおづつ)をになえて越えし峯みねはかかれる雲も懐かしきかな」 前線の兵士からの詠進です。
そして昭和20年8月の敗戦から、明けて昭和21年「松上雪」
御製「降り積もるみ雪に耐へて色変へぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」
選歌「何事も今朝は忘れて仰ぐかな雪をいただくみ苑生の松」
詠進歌数は 14262首となってしまいました。
翌年、大きく変わり始めた日本とともに、「歌会始」の制度にも大ナタが振るわれます。
勅題は初めてひらがなとなり、詠進歌の選考は、平安期の和歌を重んじた宮中専属の歌人から、民間の歌人に代わったのです。
昭和22年「あけぼの」
選歌「命ありて帰り来にけり古里の駅近くしてあけぼのの色」
選歌「あけぼのの大地しっかとふみしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと」 アメリカに在住していた日本人の詠進です。
しかしその後、「春山」「朝雪」といった平易な勅題にかかわらず、詠進数は減少。昭和28年「船出」の詠進数は5765首となります。そのためか翌昭和29年は「林」、昭和30年は「泉」と、勅題は一層平易になって行きました。
そして今歌はすっかり様変わりコンクリの街で彼と手つなぐ
宛先は「〒100-8111 宮内庁」そんなざっくりした住所!
平成16年「幸」
選歌「彼と手をつなげることが幸せでいつも私が先に手のばす」
平成25年「立」
選歌「実は僕家でカエルを飼ってゐる夕立来るも鳴かないカエル」 12歳の男の子の歌です。
いつしか詠進歌は、日本人の普遍的な感興を自然の美しさに託して歌う「和歌」的なものから離れ、個人的で、ささやかとも言える体験や思いを表わす「短歌」的なものとなりました。
これも日本が平和になったからこその変容なのかもしれません。ちなみに平成に入ってからの詠進歌数は毎年2万首ほど。しかし、紹介したようなファンシーな味わいを持つ歌を、古式ゆかしく淡々と「彼と手をーーォ」と詠む披講の様子はなかなかシュールでありました。
そして今年、平成28年の勅題は「人」
御製「戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ」
戦没者慰霊のことを詠まれた歌です。
天皇の御製も、年の初めにめでたい言葉を放つ、という趣を離れ、人々の哀しみや苦しみに寄り添うような歌となっています。しかしそのどちらもが、「天皇らしい」歌と言えるのではないでしょうか。
さて、来年のお題は「野」
「野火」「視野」などでも良いそうです。「野球」なんて…どうでしょうか?
時代を表し続ける「歌会始」の歌の歴史の流れに、一首を投じてみませんか?