12月3日は「カレンダーの日」。暦には多くの歴史がありました。
私たちが日頃使用しているカレンダーは、「グレゴリオ暦」を用いて作成されています。世界標準として使われているグレゴリオ暦ですが、一般化されるまでには多くの歴史が積み重なっていました。
今回は、そんな「暦」の歴史についてご紹介します。
太陰暦:バビロニア帝国の僧侶が発見した「月の満ち欠けの周期」
バビロニア帝国の僧侶による「月の満ち欠け」の発見
暦が用いられるようになったのは、古代バビロニア帝国の僧侶たちの発見がきっかけとなっています。彼らは毎晩夜空を見上げる中で、ある発見をしました。「月の満ち欠けが一定の周期をたどる」ということです。これをきっかけに、月の満ち欠けを利用した「太陰暦」という暦が発明されました。
バビロニアの僧侶たちがこの発見をした頃、日本は縄文時代。暦はそんなにも昔に登場していたんですね。
太陰太陽暦:8月なのに冬の寒さ?太陰暦の弱点
太陰暦の弱点を補ったのは太陰太陽暦
この問題を解決するために発明されたのが、「太陰太陽暦」です。3年に一度13カ月ある年を作ることで、3年ごとに生じる1カ月のズレを調整することにしたのです。
この暦法は後に中国へ伝来し、日本に伝えられることとなりました。
日本書紀に記された、暦博士の渡来
欽明天皇陵
日本書紀には、暦を作成するために欽明天皇が百済から「暦博士」を招こうとしていたことが記されています。暦博士とは律令制の官職の一つで、暦の作成は暦博士によって行われていました。暦を作成するための理論や計算を研究する「暦学」という学問が伝えられたのは、後の推古天皇の時代。その時に渡来した暦博士によって伝えられたのが「太陰太陽暦」です。
今となっては私たちの生活から切っては切れないものとなっている暦ですが、暦が一般化していなかった時代にはどのような時間が流れていたのでしょうか。ちょっと想像がつきませんね。
グレゴリオ暦が使用開始された12月3日は「カレンダーの日」
天保暦でいうところの明治5年11月9日、改暦が決定されました。グレゴリオ暦の使用することが決まったのです。諸外国と足並みをそろえるためとか、政府が13カ月分の給料が払えないほどの財政難に陥っていたなど、改暦には様々な理由があったようです。そして実際に改暦が施行されたのは、決定から23日後の12月3日。急な改暦に、日本では大きな混乱が生じたそうです。たしかに「1カ月後に改暦するよ」と言われたら、「仕事の締切は?」「来月の旅行の予定は?」なんて困ってしまいますよね。
ともあれ、グレゴリオ暦がすっかり馴染んだ昭和63年、全国団扇扇子カレンダー協議会によって12月3日が「カレンダーの日」とされたのです。